短々編14 - 忘却の手前
何時から置きっぱなしにしておいたのだろうか。
それすらも忘れてしまったカップが、テーブルの上で何も言わずにじっとしていた。カップの中には真っ黒な濃いコーヒーが注いであって、ランプの置かれた明るく四角いテーブルの中で唯一の闇を作り上げているのである。
私はゆっくりと音を立てないように椅子に腰をかけ、静かに深い呼吸をする。お世辞にも新鮮とは言えない、日ごろから吸い慣れた埃臭い空気が私の肺一杯に入り込んでくると、私は置き去りにされていたカップへと手をかける気になった。
私は、壊れ物に手を触れる時のように慎重な指使いを持ってカップを触れる。しかし、そのカップは既に温かさを持ち合わせておらず、冷たくなった陶器は私に死体の冷たさを連想させてしまった。それはあまり気分の良いものでは無く、若干の居心地の悪さと共にカップを持っている事を拒否したくなり、私は一度持ち上げかけた物を再びソーサーへと着地させるべきだと考えてしまった。
だが、突如浮かび上がった妄想から思考を切り離し、自らが手に持った物へとおぼろげな視線を向けると、それは紛れも無くコーヒーの注がれたカップなのであって、死体という言葉など何処にも見当たらない。
一時の気の迷いというのは恐ろしいもの。
そう思いながら、私の視線は黒い湖の上を揺蕩うのであった。
頭の隅に残った無駄な思考を、私はそそくさと奥底へしまい込んでしまうと、ゆっくりとした速度でカップを自らの口へと運んでゆく。テーブルに乗ったランプの眩い光にコーヒーの油膜が反射して、湖に反射するくすんだ太陽光を思わせるように光を放った。
だが、それは湖でもなければ太陽光でも無い。今、目の前に存在するのは、冷えたコーヒーと煤けたランプだけなのだから。そんな物の中に開放的な情景など、一寸たりとも存在していないのだ。
しかし、存在していない物が見えるなんて、ここではそう珍しい事では無い。川は流れずとも水音は響き、光は入らずとも輝く光は頭上にある。そして、知らない事があれば目の前に置かれた本を手に取って開けば、十中八九の問題はすぐさま解決の糸口を見出すのだから。
気を許すと飛んで行ってしまう自らの思考回路を再び繋ぎ合わせると、私は長らく忘れ去っていたであろう手元を見下ろす。そこには最初と変わらぬ位置にカップがあった。注がれたコーヒーの量も寸分と違わぬ、先程と全く同じ物である。
そうだ、辺りの風景も先程から全く変化を見せていない。決して動かぬ書架、狭いガラスに閉じ込められたランプの灯、誰かに使われるのを待っている古びたペンと紙片。そして、湯気を立てる事すらも忘れ果て、ただただ冷やかな態度を取っているコーヒーが目の前にある。
私は感情の無いままにカップの端に口付けをし、中身を少しばかり飲み込む。
そのコーヒーは、煤けて埃臭く、この図書館と同じ香りがしたような気がした。
-終-