短々編03 - 魔女はワルツが踊れない
円盤は回り、針がその上を滑るようになぞっている。大きな金属製のホーンからは静かにピアノの鍵盤を叩く音が聞こえていた。その古めかしい蓄音機は書架の脇に置かれた小さなテーブルに乗せられており、その細いテーブルの足では蓄音機の重い体を支えるには不十分のように思われた。少し離れた所には光の灯った洋灯が置かれたテーブルと、真紅に染められた上質な布を張った椅子が置かれていた。そして、その椅子には物憂げな佇まいをした魔女が一人座っていた。
彼女は椅子の肘掛に腕を乗せ、蓄音機をじっと眺めていた。そこから流れ来る音楽は耳に入らない様子で、ただただ回り続ける円盤を凝視していたのだ。机の上には開かれたままの本が一冊乗せられており、洋灯の灯が紙を鮮やかな橙色に染め上げている。蓄音機の中のピアノは物悲しげに鍵盤を叩き続けており、周りの静寂を更に引き立てていた。
彼女は一言も発せず、じっと回り続けている円盤を見つめていた。薄暗闇の中でぐるぐると回り続ける黒い円盤は仄かな洋灯の明かりを反射して微かに輝いていて、遠くの夜空を流れる彗星のように光っていた。だが、それも長くは続かなかった。今まで鳴り続けていたピアノがピリオドを打つと音が途切れ、円盤も動くのを止めた。それと同時になびき続けていた彗星の尾も止まって、今やただの光の反射でしか無くなっていた。
「ああ、止まってしまったわ…」
誰も居ない空間にただ一人座りながら動かなくなった蓄音機を見つめ、彼女はぽつりと呟いて少し寂しそうな表情を浮かべた。周囲から音が消え、静寂が辺りを包み込んでいく。だが、静寂が辺りを包み終える前に何処からか足音が聞こえて来て、この空間を支配しつつあった静寂を追い払っていった。その足音はゆっくりとした足取りで彼女に近づき、そして止まった。
足音の主は彼女の邪魔にならないように、テーブルの上に温かい紅茶の入ったポットとカップを音を立てないように丁寧に置いた。足音の主は何も言わずに立ち去ろうとしたが、動かぬ蓄音機を見つめたままじっとしている彼女を見て、蓄音機を再び動かす事を思いついた。そこで、彼女の脇を通って蓄音機へ向かおうとしたのだが、今まで身動きしなかった彼女が突然、服の裾を掴んできた為に足を止めざるを得なくなってしまった。
「どうされましたか、パチュリー様?」
突然掴まれ、驚いた声を上げたのは小悪魔であった。小悪魔が振り向くと、そこにはじっと自らを見つめるパチュリーが居た。パチュリーは小悪魔の服の裾を掴んだまま、彼女を見上げていた。その瞳には何とも言えない雰囲気が漂っており、見つめられ続けていると小悪魔は何故か胸が苦しくなった。
「こあ、側に居て。」
パチュリーは消え入るような、か細い声で言った。
「パチュリー様、蓄音機を回してくるだけですから…すぐに戻ってきますよ。」
小悪魔はパチュリーの手を優しく引き離すと、一人蓄音機へと向かった。蓄音機のレバーをゆっくりと回し、針をレコードに乗せようとした所で小悪魔は手を止めた。小悪魔は、今まで乗っていたレコードを外し、他の物に手馴れた手つきで交換すると、針を静かに置いて円盤を回転させた。しばらく続いたノイズの後で、大きなホーンから音楽が再び流れ始めた。微かにバイオリンの音が聞こえ始めて辺りは心地よい音に包まれると同時に、今までの物寂しい雰囲気はすっかり消え去ってしまったようだった。小悪魔は静かな足取りでパチュリーに近づくと、彼女に微笑みかけながら手を差し伸べた。
「パチュリー様、よかったら一緒に踊りませんか?」
その提案にパチュリーは一瞬驚いた表情を見せた後、寂しそうに目を伏せた。
「駄目よ…私、踊れないわ。」
「大丈夫ですよ、私がリードしますから。」
小悪魔は半ば強引にパチュリーの手を引くと、椅子から立ち上がらせた。突然の事に困惑しているパチュリーに小悪魔は優しく微笑みかると、彼女を引き寄せてゆっくりとステップを踏み始めた。ゆったりと綺麗なステップを踏む小悪魔と、硬い表情で馴れないステップを踏んでいるパチュリー。それは傍から見たらダンスとは言えない程にぎこちないものであっただろう。だが、その対照的な二人が手を取り合っている姿には、ほのぼのとした温かさを感じさせるものがあった。絨毯の上を二人の足が絡み合うように滑っていた。二人の後ろでは、優しげなバイオリンの音が静かに三拍子を刻んでいる。
「あの…こあ、私ね…」
パチュリーは何かを告げようと口を開いた。しかし、小悪魔はそれを優しく遮り、パチュリーに微笑みかけた。その微笑に対し、パチュリーはこくりと頷くと小悪魔に恥ずかしそうに微笑み返した。いつしか音楽は終わり、蓄音機の上の円盤はひっそりとしたノイズと共に回り続けるだけになっていた。だが、それでも二人は踊り続けた。静かに、ワルツのリズムで、ゆっくりとしたステップを踏みながら。
-終-